朝日軍道と朝日修験道
上杉家家老、直江兼続を主人公にしたNHKの大河ドラマ「天地人」が始まりました。長井市草岡から鶴岡市鱒淵までの65kmに及ぶ朝日連峰を縦断する朝日軍道を開削した人物としても知られていますが、この山域には既に山伏達の修験道があり軍道は拡幅改修されたものだということはあまり知られておりません。どう言う訳か朝日修験に関する遺跡や資料が極めて少ないのです。
朝日修験は出羽三山と同時代に役ノ小角により開山されたとされております。浮島のある朝日町大沼部落は朝日修験道の中心の信仰集落で一院三十三坊があったという。大沼大行院が朝日岳山伏の総元締めといわれ、宮宿の西方の布山(現在は野々山と言われていらしい)から尾根伝いに道円山-三本杉峠-高鳥屋山-伏辺山-ぶな峠-鳥原山-大朝日岳へ参拝路が通じていたとのこと。下の図をclickしてご覧下さい。朝日修験道と朝日軍道のルートが記載されております。
(山岳宗教史研究叢書7 東北霊山と修験道 月光善弘編 第五編 朝日連峰と山岳信仰 渡辺茂蔵著 P446転載) 上図を見れば朝日軍道は主稜線上にある修験道をそっくりそのまま利用したということが明確にわかります。 さて、隆盛を極めた朝日修験が衰亡したのはどう言う理由からか。これについては山伏が山賊化したため時の執権、北条時頼により千年封じの弾圧を受けたとされていますが、「実は羽黒修験たちが、朝日修験の方が盛大になると、羽黒修験の方に大きな影響を与えて衰頽をまねく、という危惧から朝日修験を弾圧させ・・・」「朝日岳の隆盛は、湯殿山繁栄のじゃまだとして、そこに修験一流の暴挙が行われたと見ても大過はあるまい」(修験の山々. 柞木田竜善著. 法蔵館 )という記述を目にした時に、そう言えば隆盛を極めた瀧山信仰も北条時頼により弾圧され、多くの院や坊が跡形もなくなっているということを思い出し、なるほど瀧山もそんな理由で衰頽したのかと納得したのでありました。 天地人効果で軍道が脚光を浴び始めた中で敢えて修験道を歩きたいなどとまたぞろ天邪鬼が騒ぎ出し始めたので、記事にしてみました。