(作成途中)庄内の修験道 ~鷹尾修験~

  <作成途中ではありますが、いつになったら完成するかわかりませんので、取りあえず公開します。> 酒田カントリークラブ 出羽富士「鳥海山」と霊峰「月山」を望むオーストラリアの名プロゴルファー、グラハム・マーシュが日本で初めて設計した「酒田カントリークラブ」(現在は閉鎖されています)。住所は酒田市北沢字鷹尾山となっている。山を切り拓いて作られた丘陵コースのゴルフ場であるが、実は鷹尾山というこの土地が、かつて最上川を境にして「川南の羽黒」に対し「川北の鷹尾」と呼ばれ北部庄内の修験場として隆盛を誇った事は殆ど知られていない。平成21年5月の注連石(すみいし)・鬼のカケハシ行をきっかけに興味を持った庄内の修験道について、御教示頂いたり文献に当たったりして整理したことを以下に記載してみようと思う。 鷹尾山信仰についての初出は進藤重記の「出羽風土略記(宝暦十二年(1762))」。それによると、鷹尾山の衆徒は山麓に点在する富14.jpg裕な農民で、無境で無年貢という理想郷のような惣容入会地で山間、山麓の村々が中心になって利用し、鷹尾山を山の神として信仰する修験者と称していたらしい。彼等は豊臣秀吉が行った太閤検地、刀狩り、なで切り令に反対し検地反対一揆を起こしたため、当時の領主である天地人で話題になった上杉景勝の仕置軍に追放されることとなった。また。「酒田の伝説と伝承」(田村寛三著)によれば、敗走した衆徒の一部は真室川に隣接する青沢に逃れて「相蘇」の姓を名乗ったとのこと。「相」は再び、「蘇」は蘇るという意味で、「いつの日かまた山伏となり修験道を再興しよう」との夢を姓に託したのだそうだ。北側にある三千坊谷地という地名であるが、御坊が三千もあったわけではなくて、「一念三千義」-人間の一念には三千もの無限の義が備わっている。極小の世界(一念)と極大の世界(三千)とが相即・相関(一即一切、一切即一)している-という統一的な全体宇宙観を示す天台教義からとられたものだそうである。 ユートピアのような鷹尾山信仰であるが、その修験道は具体的にはどのようなルートで行われていたのだろうか。酒田市在住の郷土史家、藤原岳良氏によると以下の順で修業が行われたらしい。 ・注連石権現 → 新山権現 → 相沢大権現 → 鷹尾山 ここに注連石が出てくる。追放され隠れ住んだ青沢という土地は郡境に近い奥まった地域ではあるが、実は修験道の始点にほど近い事がわかる。 鬼のカケハシ藤原氏によれば注連石の祠には剣が奉納されているが、ここに向かう途中のトイシ沢で砥石が採れたからなのだそうだ。鬼のカケハシは資料にも見当たらないが、「鬼」という言葉には「隠れる」という意味がある(例:「鬼首」←鬼壁←隠れた岩壁)というご指摘を頂き、なるほど奥にカーブして隠れるようにして突き当っている鬼のカケハシも、そのような意味合いで名付けられたのかもしれない。尚、この岩壁を冬期間にアイスクライミングで登った事があるという庄内山岳界の重鎮、池田昭二氏の話では崖の上には須弥檀(しゅみだん)があるとのことで、注連石のネーミングは案外「しゅみだん」→「しゅみいし」→「すみいし」となったのではないかとも考えられる。 今回山行をともにしたlisonさんからは前述の「出羽風土略記」のほかに多くの情報をお寄せ頂いた。修験ルートの2番目の新山権現は新光山最勝寺が祀ったもので開基は建長四年(1252)で修験九坊があったらしい。最勝寺は明治期に新山神社と改め現在に至るが、当時庄内地方の修験者出世の道場としての峰中堂を有していたのは、羽黒山、鳥海山蕨岡口、金峰山、新光山の四山だけであり、当時の領主から相当の石高を拝領していたという由緒ある場所なのだそうだ。現在でも「新山延年の舞」が行われることで有名である。 またlisonさんによると別のルートでの修験も行われていたとのこと。 「密峰執行軏」(沙門及秀)に修験の一つに愛沢神社(鷹尾山宝蔵寺は愛沢大権現が鎮守)の末寺を十三日間宿泊しながら廻り、その後7日間断食するという参宮掛宿と言うものがあったとのことで以下の順に回ったらしい。 ・田沢村胎蔵権現 → 相沢権現 → 鹿島大明神 → 道場屋敷村の柴燈護摩 → 十二瀧不動堂 → 中野俣村三五沢の熊野十二社権現 → 五色沢の般若十六善神 → 経ヶ蔵奥の院ののぞき石 「密峰執行軏」の軏(よこがみ)とは、車の心棒のことで山法の基本的事項のことだそうだ。 十二滝から少しだけ南に視線を移動してみよう。旧平田町には仏教の世界観を表現した教図「胎蔵曼荼羅」をとった「胎蔵山」という名の山がある。曼荼羅は金剛界曼荼羅と対になって両界曼荼羅とされていることから「胎蔵山」対応する「金剛山」がなければならないが地図で探してもそのような名前の山は見つからない。対応する山はどこであろうかというと実は「鷹尾山」なのだそうだ。このことは旧平田町史に記載されている。またコメントを頂いたいそたんさんによれば、庄内町図書館に「鷹尾山胎蔵山両界曼荼羅(未完)」という書籍があるとのこと。鷹尾山と胎蔵山は鷹尾信仰では対になっているのだ。胎蔵山の東側の尾根には「座頭泣かせ」という場所もあり、現在は登山道の記載はないがかつて往来されていたようで興味深い。

 さて、ここで夫々の行場や聖地を場所が特定できるものだけでも地図に並べてみよう。するとどうだろう。鷹尾修験は北海林道をメインに弁慶山地全域にわたっているではないか。様々な文献に当たっても鷹尾修験についての記述が乏しい中で、最上川の北にこれだけの修験道があったとはまさに驚きだ。

庄内修験道マップ

 羽黒修験と鳥海修験が対抗する中で、上杉軍による征伐や神仏習合の禁止などから鷹尾修験は衰微し、一部が神社として残った以外は往時を偲ばせる物は殆どなくなってしまったが、lisonさんによれば追われた鷹尾修験者が蕨岡を中心とした鳥海修験として再興したのではないかとのこと。また、いそたんさんのコメントを転載させて頂くと「lisonさんの考え、蕨岡に移行していったというのはほとんど疑いようがないことに思います。戦国時代の磐井出館主であり鷹尾山伊氏波神社別当でもあった戦国武将の阿部良輝に関するものにはたいてい「上杉氏と戦って阿部氏は全滅し、鷹尾山衆徒は蕨岡館に移った」と記述されています。また、教えていただいた出羽国風土略記にも「蕨岡村の衆徒は鷹尾三千坊の末也といふ事土俗の常談也」と記述があり、その少し後に、上安田にある鷹尾山勝福寺は上杉氏から逃げ延びた鷹尾修験が再興したもので、蕨岡の龍頭寺の傘下である、という記述もありました。 新山神社の延年の舞が「蕨岡延年などと同系統」と紹介されたりしています。踊りの様式などから学者がそう分類しているみたいですが、鷹尾修験の一山だった新山権現の延年舞と鷹尾修験の移行先の蕨岡延年舞が同系統なのは当たり前のことだってことですね。」   多くの方からのご助言により、かつて庄内北部に鷹尾修験が興り、弾圧の後は蕨岡に移って鳥海修験に移行していったということがほぼ明らかになった。 弁慶山地に僅かに残る修験の跡を往時を偲びながら歩けば、眼前に広がる風景は心象風景と相まってきっとまた違った感覚となって訴えることであろう。 最後になりましたが、このページを纏めるにあたり御教示賜りました郷土史家の藤原岳良様、沢山の貴重な情報をお寄せ頂いた山仲間のlisonさん、貴重なコメントを頂いたいそたんさん。そしてお骨折り頂きました酒田市文化課様に深謝致します。
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