鳥海山の思い出

日本最高気温40.8度(現在は埼玉県熊谷市と岐阜県多治見市が平成19年に記録した40.9度)を記録したのは昭和8年7月25日、場所は山形。その年、石原さんという方は従兄弟と前日の夜から鳥海に登り始め、25日に山頂に立った。そして北の方を見ると下北・津軽半島が、南を見るとなんと日本アルプスが見えたそうな。 フェーン現象で見えたのかもしれないが、誰も信じてくれないし、途中誰にも逢わなかったので証明することもできなかった由。鶴岡市が発行した「俳聖芭蕉 奥の細道紀行三百年記念『紀行文・随筆募集』入選作品集」に掲載されています。素晴らしい作品ですのでご紹介します。

優 秀 作   庄 内 二 つ の 登 山 記

石 原  知 津

鳥海登山の思い出

六十年近くも前の鳥海登山の思い出である。今は亡きいとこの尚さん、当時医者志望の水戸高校理乙の生徒で、登山部に入って活躍していたその尚さんといっしょに、鳥海山に登ったのであった。 昭和八年七月二十四日から二十五日にかけでである。ピッケルなどは尚さんが持っていたから借りた。着るものは多少多めに用意したほかは、格別登山の七つ道具などは持たない。 握り飯だけは多めに作ってもらって、リュックにつめこんだ。 夜おそく吹浦の駅につき、大物忌神社の横から登り始めた。 暗いうちの、樹木地帯から潅木地帯の問はらくであるが、それから先七合目ぐらいまでは、木もなくなり、だんだん急になる上に、行く先々に峯が現れるという状態なので、辛い、 退屈な長丁場であった。今はバス道路ができて様相は一変したのだが、古い時代の鳥海登山の経験のある人は、皆同じ感想をもつのだそうだ。これが、われわれ庄内、特に鶴岡方面から望んだ鳥海山の、西側のコブから左のあの秀麗な流線のよって来たるところのものであるわけだ。 鳥ノ海が近くなったあたりに雪溪がある。鳥ノ海についたのは、二十五日朝七時ごろであった。南の方から強い風が吹 いてくる。その中で朝食にする。小屋はあるが、中に設備は何もない。お花畑があり、すばらしいながめだ。 少し行くと、鳥海山火口の外輸をなしている絶壁にさしかかった。底の方は千蛇谷というのだが、霧で見えない。いったん火口の中に入り、そこから雪溪づたいに中央の新山に登り始めた。ごろごろした岩山で相当けわしい。休み休みしながら、あえぎあえぎ、九時ごろ大物忌神社奥ノ院についた。 そこの小屋で、みそ汁をすすりながらまだ握り飯を食べる。 十時ごろ下山の道に出発する。下山といっても、はじめはまた外輪山の内側を登るのである。外輸山の一番高いところは東方の七高山(二二三〇メートル)であるが、われわれは南の行者岳(二一五九)の方を通る。行者岳の西に、伏拝岳、文珠岳などがつらなる。 行者岳あたりからの眺望は、息をのむぱかりだ。高い空は真青に晴れ渡って白い雲一つ見えない。尚さんと顔を見合わせて、互いにこのすごい景色にため息をつくぱかりだ。 日本海の飛島がすぐそこに、置いた庭石のように見える。 山形県、秋田県の長い海岸線。男鹿半島の寒風山。さらにその北、青森県の津軽、下北の二つの半島が地図のままの形であるのが非常に面白い。東に最上盆地、南は月山、朝日の連峰から、粟島、佐渡。 突然尚さんが、「おい、日本アルプスが見えるぞ!」と叫んだ。 本当に、南方はるか遠くに、日本アルプスの白い峰々が、 点々とつらなるのを認識することができ、その延長線上に、 能登半島が、かすかではあるが確実に認めることができた。 高い山だから相当遠くまで見えるだろうことは当然として、下北半島から能登半島までとは真に驚きであった。登山経験の多い尚さんも言葉を尽くして絶賛する。 しかしながら、後日このことを人に話しても、大ていの人は、そんなに見えるのかね、というような顔をする。特に山登りの経験のある人ほど、信用の度がうすい。 たしかに、距離や角度では見えるはずでも、たとえぱ東京タワーのようなところで、日光連山あたりまで見えるはずだといっても、実際は日光はおろか、都内さえも少し離れたところはよく見えないのだ。雲らしい雲はなくても、かすんでしまうからだ。だから、誰も信用してくれない状態なのも、もっともなことだ。あの眺望の、私以外のただ一人の証人になるべき尚さんはすでにいないのだから、どうすることもできない。残念としか言いようがない。あの日鳥海山で会った人物としては、大物忌神社の小屋でみそ汁を売っている人と、 下りの河原宿の小屋の人のほかは、登山者は、ただの一人も見ていない。今から考えると、まことに奇異な感じがするのである。 ところが、このためにも、次の事実を書いておかなければならないのである。 実はあの日、昭和八年七月二十五日という日は、日本海方面はいわゆるフェーン現象を起こしており、山形市が、四〇. 八度という、日本の最高気温を記録した日であったのである。 こういう特異な気象の日であったがゆえに、ああいう信じられないような眺望もあり得たのだということを、人は納得してもらいたいものだと思う。 ただし山形市がああいう記録を記録しておきながら、山形市民はそんなに極端な暑さを感じなかったものらしい。後年、山形の人々にこのことをきいても、「いつも山形の夏は暑いですからね」といって、この記録には関心をもっていない人が多かった。 ところが、戦後の昭和五十三年八月三目に、酒田が四〇. 一度の記録と、鶴岡が四〇.九度という未公認記録を出したときは、人々は耐えられない暑さだったという。蝉がボタボタと落ちてきたという。私はその記録の翌日、鶴岡の蓮台院という寺に行く機会があったが、その寺の墓地で、蝉が無数に落ちて死んでいるのを目撃した。私の郷里の水沢の村の女たちも、いくらか涼しい寺に避難してきたそうである。 さて、鳥海山頂の行者岳のあたりで、稀有な眺望に際会し、それを満喫した尚さんと私の二人は、下山する。 下山は伏拝岳あたりから始まり、大鳥海の横っ腹に切り立つような急坂の連続である。小さい雪溪を二つばかりすぎ、 大雪溪のある河原宿の小屋で少憩する。 これから先は、石ころと潅木が果てしなくつづく曲がりく ねった道。足がだんだん痛くなってくる。蕨岡までの数里は実に辛い道であった。鳥海登山は、登りはそれほど苦しかった記憶もないのだが、下りは実に苦しかった思い出が残る。 四時半ごろ、ようやく蕨岡の杉原というあたりまでたどりついたが、これから遊佐の駅まではまだ二里余あるという。 どうにもまいってしまって、尚さんよりずっと若い私が弱音をはき、二人で馬をやとって遊佐まで来る。夜おそく家に帰 り、翌日は十一時まで寝たが、起きても足腰が全く立たない。
「俳聖芭蕉 奥の細道紀行三百年記念『紀行文・随筆募集』入選作品集」より抜粋(本文は縦書きなのですが便宜上横書きで掲載させて頂きました。申し訳ございません)
 
資料提供 : 鶴岡市教育委員会社会教育課文化財係
昭和8年当時は吹浦の大物忌神社口之宮から蕨岡までが縦走ルートだったんですねぇ。相当に長い。 それにしても暑くなかったのかしらん。かなり炙られたのではないかと思うのですが・・・。山登りの経験がある人ほど北アルプスまで見えたということを信用しないというのは、とても理解できます(^0^)。
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