朝日修験道を行く
朝日修験道を行く プロローグ
平成21年から始まったNHK大河ドラマ「天地人」の人気から、朝日連峰の主稜線は主人公直江兼続が開いた朝日軍道であるということが一般に知られてきた。私が山登りを始めた時も、朝日連峰は他の山域と違い宗教色がなく、登山道は戦国時代の軍道に由来すると聞かされていた。ただ盟主大朝日岳をはじめとする風格のある山々が連なるこの山域が古人の信仰の対象にならなかったというのが何とも不自然で、時折思い出しては文献に当たっていた。それで解った事は、朝日連峰には山伏達の古い修験道があり軍道はそれを拡幅改修されたものだということだった。ただ、どう言う訳か朝日修験に関する遺跡や資料が極めて少ないのだが、今年初めに大変貴重な記述をみつけた。山岳宗教史研究叢書7 東北霊山と修験道 月光善弘編がそれである。これによると、「朝日修験は出羽三山と同時代に役ノ小角により開山されたとされている。浮島のある朝日町大沼部落は朝日修験道の中心の信仰集落で一院三十三坊があったという。大沼大行院が朝日岳山伏の総元締めといわれ、宮宿の西方の布山(現在は野々山と言われていらしい)から尾根伝いに道円山-三本杉峠-高鳥屋山-伏辺山-ぶな峠-鳥原山-大朝日岳へ参拝路が通じていた」という内容の記述がある。(下図は前述の研究叢書 第五編 朝日連峰と山岳信仰 渡辺茂蔵著 P446転載)
また隆盛を極めた朝日修験が衰亡したのは、山伏が山賊化したため時の執権、北条時頼により千年封じの弾圧を受けたとされているが、「実は羽黒修験たちが、朝日修験の方が盛大になると、羽黒修験の方に大きな影響を与えて衰頽をまねく、という危惧から朝日修験を弾圧させ・・・」「朝日岳の隆盛は、湯殿山繁栄のじゃまだとして、そこに修験一流の暴挙が行われたと見ても大過はあるまい」(修験の山々. 柞木田竜善著. 法蔵館 )という記述が興味深く、山形市の瀧山信仰の衰頽と通ずるものがある。
以上の事柄から朝日修験が急に身近に感じられてきてはいるのだが、朝日連峰における山岳信仰については出羽三山信仰の教義のように研究されておらず、内容は依然として謎のままである。俳聖芭蕉は「古人の跡を追わず、古人の求めたるものを求めよ」と弟子に教えたが、実際に修験道を歩き山を仰ぎ見ることで何か感じることができればと思う。いざ宮宿の布山へ!
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